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読書日記


←前月 2日 アンチ「速読」

【遅読のすすめ】山村修(新潮社)

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3日 推理小説とは呼べそうにないのだが

【アルキメデスは手を汚さない】小峰元(講談社文庫)

4日 主人公に共感できるかどうかがカギ

【ひとり日和】青山七恵(河出書房新社)

11日 久しぶりにじっくり読んだ

【プラネタリウムのふたご】いしいしんじ(講談社文庫)

15日 書評を読む

【へそまがり読書王】安原顕(双葉社)
【読者は踊る】斎藤美奈子(文春文庫)
【出版業界裏口入学】北尾トロとレオナルド調査隊(メディアファクトリー)

18日 一気に読んだけど、最後で・・・・

【風の谷のナウシカ】宮崎駿(徳間書店)


7月2日(月)

アンチ「速読」

図書館の「図書」のコーナー(書誌やったかなあ。図書館というのもいっしょになってたかも)には、本についての本がいっぱいある。多いのは「速読法」とか「1分間に10ページ」とか「こうやって○○冊読む」とかである。現代人は時間がないのに、読まなければならない本は増える一方なのだろうナア。なにしろ世の中、情報化社会である(死語だ)。どれだけの情報を蓄えておけるかというのが勝負になるのだ。そのためには、如何に他人より短時間に多くの情報を得ることができるか、というのが大事なのだ。

ホンマか? それがそんなに大事なことなのだろうか?
というところから、「遅読のすすめ」は始まる。

ゆっくり読まないと分からないこともある。読み飛ばして、その本の一番重要な、一番味わい深い部分を味あわずに終わっている。そんな読み方をしていませんか?

している。確かにしている。読み飛ばしているところ、いっぱいあるなあ。そして「面白かったからもう一回読もう」なんてことはほとんどない。あるとしたら「前に読んだけど、忘れてしもたから、もう一回読んでみよ」ということぐらい。

著者に言わせると、速読術の「大事な部分をおとさず読む」というのは「読書」とは呼べないのだそうだ。文章を味わってこその読書。確かにそのとおりです。
でも中には、味わってほしくないのでは? という本もあるんやけどね。

それにしても。数ある読書案内で、「ゆっくり読みましょう」というのはこの本ぐらいであった。アンチ好きにはたまらん本であったよ。みんな読め。時間をかけて。


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7月3日(火)

推理小説とは呼べそうにないのだが

1973年江戸川乱歩賞受賞作「アルキメデスは手を汚さない」を読んだ。今頃になって。話題になったころは読む気にならへんかったなあ。話題になってるものほど読みたくないっていうひねくれ者だったのだ。いまでもひねくれてるけど。

で、それから30数年。今読んでみると、これって推理小説のようで推理小説でないのだね。べんべん。舞台は高校。しかも豊中ですと。
高校生の美雪は、中絶手術の途中で絶命してしまう。美雪を妊娠させたのは誰か? 父親は犯人探しを始めるが、そんなとき教室では毒殺未遂事件が起きる。
さらに、同級生の男子学生の、姉の愛人(不倫相手)の殺人事件、さらにさらに、その姉の「密室殺人」事件などが次々に起こる。美雪が最後に言った言葉「アルキメデス」とは何か?

と、なにやら謎が謎を呼ぶような、探偵小説の王道を行くようで・・・・全然行かないのだなあ。
それぞれのトリックというか、事件の解決はじつに簡単。偶然も重なって謎が解ける。刑事が「あやしい」と思った人物を、追い詰めていくと、たしかにその人物であった、などというのもなんだかなあ。

そして、最初に書いたように舞台は豊中なのだが、ほとんどが標準語で話が進むため、高校生の描写などを読んでいると、そこが大阪ではなく東京のような錯覚をおぼえてしまう。まあ、場所はどこでもよかったんやろけど。というぐらいの、地理に関係ない話の展開でありました。

江戸川乱歩賞受賞、とかいう肩書から想像すると、ちょっと肩透かしを食らうかも。あ、ちゃんとトリックらしいものもありますよ。
でもこの小説の主題というか、キモはやっぱり、主人公の高校生たちの姿、やろなあ。
で、意外にもこの小説を書いたとき、小峰元はすでに50歳を超えていたのだね。へえ。知らんかった。高校生を主人公にした小説やから、すくなくとも20代の作家やと、これまた先入観を抱いていたのだな。
でも、逆に、それだったらもっと掘り下げた文章を、と思ってしまうなあ。いや、これはこれで面白いけど。ただ、読み終わったあとの、心に残るものとか、そういうのがちょっとありきたりなものになってしまうのが、残念。


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7月4日(水)

主人公に共感できるかどうかがカギ

2007年芥川賞受賞作、「ひとり日和」を読んだ。
「わたし」は母親と二人暮らしだったが、母親は中国に行くという。残ったわたしはどうするか。一緒に中国に行くか、自分でお金を稼いで暮らすか。結局後者をとり、都心に住むおばあさんとふたり暮らしをする。おばあさんはお母さんの親戚のおばさんなのだが、今まで何人も「東京へ出ていく」女の親戚を家に住まわせていた。主人公もそのひとりとなったのだ。
年老いたおばさんとの共同生活。何が起こるわけでもない。二人の心の交流、などというのを期待してはいけない。そんな話は(ちょっとにおわせるところもあるけれど)ほとんど出てこない。おばさんと「わたし」は、常にある距離を置いて生活している。
そして、「わたし」には、人のものを盗んでしまうという「癖」があった。

まあなんというか。こういうのが芥川賞かあ。まあ選考委員を考えたら、こんなものなのかなあ。いや、でも金原ひとみや綿矢りさはおもしろかったよ。それにくらべるとなあ。

なにしろ、主人公の(ということは語り手の)「わたし」に、まったく共感を持てないからなのだな。コンパニオン(パーティーなどの)のアルバイトなどをして日銭を稼ぎ、昼間も空いているからと駅の販売所で働き、駅員と恋をする。その恋も、ほのぼのとは程遠い感覚。というか、「ほのぼの」を頭から否定しているような。
どうも、自分はかわいいがまわりはそう見てくれない、みたいな空気が漂うのだな。そんな人が見た、同居人のおばあさんは、その生活ぶりを楽しんで観察するでもなく、ただ「自分とは違うもの」として見るだけ。

正直言って、こんな女とは知り合いにもなりたくない。めんどくさそうやし。うだうだと自分の話を(自慢話ではない)して、そのあげくに
「自分のことを話すのはきらい」
とか言いそうだ。ああ、めんどくさい。

どんな小説でも、その登場人物に共感できないと、読んでいて居心地が悪いものだ。人間はひととおりではないし、いろんな面を持っているから、どこかに共感できる面があるもんなんだろうけれど、今回のこれはあかんかったなあ。


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7月11日(水)

久しぶりにじっくり読んだ

いしいしんじって、どういう人か全然知らなかったのだが、図書館で「プラネタリウムのふたご」というのを見て、本の題名がなかなかいいなあと思って読んでみたら、これがほんとに素晴らしかった。久しぶりに、読み飛ばすことなく、楽しくじっくり読んだよ。おかげで読むのに時間がかかったけど。

村のプラネタリウムでみつかった双子の兄弟。プラネタリウムの解説員「泣き男」に引き取られ、テンペルタットル星にちなんでテンペルとタットルと名付けられる。
成長したふたりはそれぞれ、手品師と郵便配達(をしながら星の解説もする)になって。そして数奇な運命がそれぞれにふりかかる。

なんていう説明は、どうもこの話の本当の面白さを伝えてなくて。どうしようかなあ。
読んでると、なんか日本の作品じゃないような気がしてくるんやなあ。まるで翻訳文学を読んでいるような。それもヤングアダルトの。
ふたごのふたりが、それぞれたどる人生の、それぞれの場面場面が連作のように綴られて、そして終章を迎える、という事なんやけど。それぞれのエピソードが心に響くよなあ。まるで昔ばなしを、あるいは上等の料理を食べているような気分になる。
なにしろ文章がうまいのだ。こういう感覚、前にあったかなあ。そうそう、恩田陸とか宮部みゆきがこんな感じかなあ。いや、それよりもっと英語っぽい。というか翻訳ものっぽい。
それはたぶん、ときどき時制が変わったり、会話文が地の文になったりとかいう、そういう展開が絶妙だからやろなあ。と途中で気がついたのだった。

まあ文章だけよかっても、なかみがなってなかったら読む気にならんもんですが、中身もとてもよく出来ていて。いや、文庫にして500ページにもなるんやけど、ほんまに構成とか、話の進め方とかがよくできていて、最後まで楽しく読まされたよ。「最後までワクワク」とか「最後までハラハラ」とかはよくあるけど、「最後まで楽しく」っていうのは、これはもうほとんど古典のものしか記憶がないかなあ。
いしいしんじは、要チェックやな。なに? 大阪出身か。ますます好きになりそう。


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7月15日(日)

書評を読む

書評を読むのが好きだ。新聞の書評欄も必ず目を通す。毎週日曜日が書評がたくさん載る日なので、新聞を読むのも時間がかかったりするくらい。
書評にもいろいろある。出来不出来もある。そもそも何で書評を読むかというと、次にどんな本を読むかを決めるために読むのだなあ。
毎日何十冊(ひょっとして何百冊?)も出版されている本を、片っ端から読んでみる、というのは不可能である。いや「読んでみる」どころか、概要を探るだけでも、どういう流れの話なのかも、把握することはできない。
それでいて、面白い、自分にとって役に立つ(イヤな言い方やけど)本は読みたい。では土の本が役に立つのか。どの本が「読まなくてもいい本なのか」、そのアドバイスが欲しいのだ。

というわけで、一番手っ取り早いのは書評である。書評にはかいつまんだその本の内容、著者の傾向、今までどんな本を書いたか、等々、「その本を読んで楽しいか」という目安になることが書いてある。これを目安にして、読みたい本を探すのだな。

ここで大事なのが、評している人と自分の性格、嗜好が似通っているということである。当然のようでこれがなかなか難しい。評者とは会ったこともなければ話を聞いたことさえない人だっている(マスコミに出てこない人が多いような気がする)。だからどの人が自分と性格が合うか、意見が合うか。それを探るためにその人が評した本を一度読んでみて、それでその人の評価どおりだと自分が思ったら、その人と自分の嗜好は同様だとわかって、それからはそのひとの「書評」を信用してもいいわけである。

と、前置きが長くなったけれど。安原顕は、どうやら信用してもいいようだ。と書くとちょっと誤解もされそうやけど。「へそまがり読書王」は2001年に書かれた書評が多くを占めている。あの年。9.11があった年だ。そういう世俗の出来事は文学に関係ない、という時代では今はないのだな。安原顕というひとは、そうとうな読書家で(月に100冊は読むらしい)、その上独特の自説を展開しもする。「天皇は戦争責任をとるべきだった」「宗教がなくならない限り世界に紛争は絶えない」「そんな人類には絶望している」等々。
偏っている? 確かにそうかも。でもここまではっきり宣言されると小気味よい。体裁を繕ってあれこれ言質を弄する人たちが多い昨今、なおさら惹かれるものがある。

で、そういうバックボーンは有りつつ、書評は書評としてしっかりと書かれているのですな。よいものはよい。あたりまえやけど。その本の「ここが気に入らない」「ここがいい」「ここんところが惜しいんだよね」と、はっきりと書かれていて、ああ、これはよくあるヨイショ記事とは違うなあ、信用できるなあ、と思うのであるな。

と、えらそうに書いてるけど、半分ぐらい読んだところで挫折した(分厚い本なのです)
分厚すぎて読みきれなかった、ということもあるけれど。これ、ずっと読んでいると、とてもよくできた書評で読書案内なので、コレを読んだだけで紹介された本を読んでしまった、その本の内容(というより価値)をすっかり理解してしまったような気になるのだね。
この本を読むのに時間を取られて、肝心の紹介されている本を読まずに済ましてしまう、という事態に陥りそうな自分が怖かったのだ。これからここに紹介されている本を読むとき、先入観を持って読んでしまうやろなあ、と思いだしたのだね。本は先入観なく、真っ白な状態で読むのが一番楽しい。


「読者は踊る」を読むと、斎藤美奈子は安原顕と比べると、もっと口調がはっきりしているし、本の裏側というか、著者の思想・思考の矛盾まで読みとってしまって、こりゃ上には上がおるもんやなあと思ってしまった。
「芥川賞や直木賞の選考委員には、作家しか居ない。つまりこの両賞は、『自分たちの仲間に入れてもいい作家』を選ぶためにある、『人事試験』のようなものだ」
というのには、思わず膝をたたいてしまったなあ。

さらに、先に書いた「自分の嗜好に合う書評」というのにつながるのだけれど(というか、コレを読んだから上の文章が思い浮かんだのかも。パクリか、わし)
「石原慎太郎がいいと思ったものは、まず面白くないと踏んで間違いない」
というのも、僕と共通するし。

さて、この本が書かれたのは1996〜1998年。その時代に出版された、話題になった本を取り上げているので、今読むと一層面白い。
ちょうどタレント本が出始めて、しかもベストセラーになった時代。唐沢寿明の「ふたり」が、石原慎太郎の「弟」と共通する「私小説」なのだ、という読み方。できるなあ。だいたい唐沢寿明と石原慎太郎を同じ俎上に乗せるところが、「タレント本」という先入観がある人間にはできない。

そういう、素直な目で、しかしときに辛辣な評を書くところがとても僕の好みに合っている。こういう人、居たなあ、と思い出した。ナンシー関だ。
で、米原万里さん(!)のあとがきを読むと、斎藤美奈子は文壇とはあまり親しくしていないようだ。仲良くなりすぎると自由な書評ができない、という考えらしい。その辺もナンシー関を思い起こさせる。

それにしても。ここに載っている「環境ホルモン」とか「利己的遺伝子」とか「複雑系」とか、そういう本はどこに行ったんでしょうねえ(それぞれの章の最後にちょこっと、それらが消えた理由も伺える考察がある)


北尾トロというひとはよく知らない。「出版業界裏口入学」は、出版会の裏側を暴いた暴露本、ではなく(ごめんなさい)、一般常識として読書好きに信用されていることがら、あるいは「読書好きならこういうことは知ってるだろう」と一般人に思われていることは、「本当はどうなんだろう」ということを、実地で調査した本である。といっても、その言い回しでも分かるように、それを楽しんで、つまりは「なんちゃって」というところを含んだ調査なのだが。

「国立国会図書館の使い方」とか「サイババに会いに」(ほんとにインドに行ってきた)とか「イヌ・ネコ本の決定版」とか(ちょっとうろ覚え)。
「ダ・ヴィンチ」に連載されていたものをまとめたらしい。時代が先に書いた「読者は踊る」と重なるので、その点でも、同時に読むと、その時代の流行りがよくわかる。でも、遊んでるだけ、という観は否めないけどね。


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7月18日(水)

一気に読んだけど、最後は・・・・

図書館に1〜4巻をリクエストしたら、全7巻をいっぺんに用意してくれて。まあしゃあないかと思って、全部借りてきました。
アニメとはかなり違うということは前から話には聞いていたけれど、コレほど違うとはねえ。アニメになったのは最初の部分のみ。王蟲の突進がおさまって、そこからが長い長い話なのですね。
どこか「指環物語」に似てるなあ。ナウシカにみんなが付き従っていって。姫さま姫さまって言ってね。で、ナウシカもだんだん力をつけてきて。王蟲と交信できるのもおどろきやけど、やがてもっと高度な能力も発揮していってね。あとから出てくる僧正とか森の人とかチクク(少年)とかも、いろんな能力があってびっくりやなあ。もうこれは、普通の状態では読まれへんなあ、って思ってしまった。まあ、普通の状態で読めるマンガっていうのもめずらしいんやけど。
遠い未来の地球を描いて、現在に警鐘を鳴らす、という単純な話から、どんどんと「神」と「人類」の話になって。いやもう、どうしていくんやろう、と思ったら、意外と「解答」が待っていて、僕は拍子抜けしてしまったなあ、最後の解決。もうひとひねりあると思ってたから。
途中から、超能力とかが出てきて、一気に大友克洋っぽく見えてきて困ったよ。「アキラ」の世界やなあ。絵も似てるし。
それから、「巨神兵」はアニメに出てきたのとはキャラが違っている。ナウシカを「オカアサン」とか呼んだりして。どちらかというと、「ラピュタ」の飛行ロボットの方に似てる。ナウシカに忍び寄る「闇」は「もののけ姫」のタタリ神ですか。「粘菌」が地表を覆っていくさまは、おなじく「もののけ姫」のラストに通じるなあ。
で、最後はいろんなことに説明がついて。そしてナウシカは神格化されて(いるようにみえる)。
まあ、話が長くなると(とくにこういう年代記的な物語は)、最後には辻褄あわせに走ってしまうというところがある。ひどくはないけれど、最後の説明はちょっとなあ。もうちょっとなんか、ひとひねりがあってもええと思うんやけど。ちょっと、ありきたりかなあ。それまでの展開がいろいろありすぎただけに、よけいに残念な気分。


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